脳内シェナニガンズ

沼語りと既成年の主張

完食するということの話

「残さないで食べなさい」というフレーズは幼少期に全員が言われたセリフだと思う。自分は生来これといった好き嫌いは無く、小食な方でもなかったので、出てきたものを完食することを障害に感じたことはほとんどなかった。しかし大学に入り、案外世の中には食べ物を残す人がいることを知り、これがなかなかに衝撃だった。自分が当たり前と思っていた所作に則らない人がいて、それが外国ではなく身近な文化圏の人間だった。

一般的に食べ物を残す子供にかけられる言葉は、次のいずれかだと思う。①作ってくれた人に失礼(料理を作った人と食材の生産者と2パターンあり)②頂いた命に対して失礼③金銭的にもったいない。これを踏まえて、なぜ大学生というタイミングで食べ物を残す人を見るようになったかということを考えると、一人暮らしを始めて料理を作るのが両親以外となることが増え、①の料理人に対する後ろめたさが減ったからなのではないかと考える。さらに言うと、これは実際に言う人に出会ったため語るが、「自分の金で買ったものに対してもったいないとか言われる筋合いは無くない?」という意見もあり、つまり③に対する忌避感も弱まり始めるタイミングなのだと思う。

すると②の頂いた命に対して失礼、という観点はどうなったのだろう。今日昼休憩の間にそんなことを考えながら麻婆茄子を食べていたら、ある考えに至ったため今回の投稿に至った。

 

食育という概念が世間で一般的になってしばらく経つ。これが謳われるようになった経緯は、外食やインスタント食品、その他消費者が調理に最低限の関与をするだけで食べられる食品が世に広まり、食材の元の形が見え辛くなることで食材の原型、ひいては命をいただいているという実感が薄れてきたからだと言われている。かくしてこの意識の変化が食べ物を残すことへの最後の障壁を崩したのだと考える。

 

さて今回言いたいのはこんな当たり前のことではなく、我々食べ物残さない族はどうふるまうべきかということだ。残す残さない問題の根底には食べ物と食材の命の間に存在して当然である(と残さない族は思っている)時系列的なつながりに対する意識の違いがあることが分かった。この考えの違いは倫理観の違いと言えるが、日本人に聞きなれない言い方をすると、宗教間の違いなのではないだろうか。

日本人は無宗教であると自認しているケースが多いが、これは誤りであるという内容の文章[要出典]を読んだことがあり、自分はこれを支持している。これによると日本人のマジョリティーはそれをそれと認識できないほど日常に溶け込んだ神道と仏教が融和した宗教を信仰している。こうなるのは自然で、キリスト教が伝来する前は、仏教の渡来以降1000年間弱ほど日本は文化的な差異が少ない島国で、考え方や所作が神道と仏教由来であることを意識したことがないまま過ごしてきたからだ。他所の考え方というものに触れる機会が少なく、当然に行っている動作が、それ自体に合理的な理由は無く信仰によるものであるという意識をしないまま過ごしてきたのだ。ちなみにこの発言には宗教を貶す意図はなく、たとえば言語や歴史という概念が無い世界で、大木に向かって祈りを捧げたり、食べる以外の目的で収穫や狩猟をして大岩の前に陳列する行為が自然かという話である。もちろんそれによって個人の精神的な安寧を得たり共同体としての秩序が得られたりするならば宗教的な行為は、それが他人の権利や行動を害しない範囲では、自由に行われて然るべきでそれを貶す行為こそ唾棄されるべきと考えている。

 

と、脇道に逸れたが食材の命という考え方は非常に神道的な概念で、それをどこまで当然として捉えるかは、即ち各人がどこまで神道的な考えを許容しているかと言い換えられるのではないかということが言いたいのだ。

すると食べ物残さない族と食べ物残す族は宗教の違いとまでは行かないまでも、宗派の違いはあると言えるのではないだろうか。当然だが、上でも書いたが宗教的活動は「他人の権利や行動を害しない範囲で」行うべきであり、完食の押しつけは宗教勧誘ないしは他者の信仰を否定する行為になってしまう。

つまり完食を正義とする我々は、食べ物を残すことに抵抗が無い人たちに対してその行為を咎めることを控えるべきで、多宗派の教義と捉えて波風を立てずに流すことが推奨される。

しかしこれは相対する食べ物残す族にも共有していただきたい認識で、食べ物を目の前で残されることで我々は非常に大きなストレスを受ける。そのため、例えば付け合わせの野菜に苦手なものがあることを予め把握しているならそれを抜いてもらうよう注文時に一言添えたり、そもそもそのメニューを頼まない、あるいは手を付ける前に同行者の皿に移動するなど、できるだけ残す必要が無くなるような行動をしていただけると助かります。